鼻血
満月の夜は研究室に入り浸るんだ。
考えてもみろ。他の星はあんなにも小さくて遠いのに、月だけが異様に地球に近い。…空にいるくせに、あんなにも存在が確立されている。その存在が一際感じられる夜は、私達が呑気に寝ているうちに少しずつ落ちてきて地球を抉ってしまうんじゃないか。そんな否定も肯定もできない不安が脳味噌を侵食する。
アルヴァと夜に何をするのか?昼と同じだ。ただ、時折不安を紛らわせようと古代言語の解説書を意味もなくペラペラとめくって読んだフリしたり、私が設計した機械の最終点検する彼の後ろ姿を眺めたり、大きくバツの書かれた計算用紙の端っこに、絵とも文字とも判断つかぬそれを写しとってみたり。それで、少し眠くなったら、腰を屈めて木の隙間まで覗きこむ彼をベッドに呼んで眠気覚ましになることを一緒にする。それだけ。
「ヘルマン、確か君は私の事が好きだって言っていたよね。」
…ああ、言ったさ。
「それって、君が私に性的欲求を抱いているっていう解釈でいいのかな…?違う?」
「ええと、それはどういう…」
「…」
「…」
「…うん、なんというか…とにかく、なければないで構わないんだけど。ヘルマンはそこ止まりでいいのかなって。私と。所詮友達止まりで…」
「君とそういう行為をしたとて、私と君の友情の深さは変わらないだろう?それとも君は、今までの友人にそんなことを提案してきたのか?」
「まさか…私、もしかしたら君が怖がっているんじゃないかなって。いい?ヘルマン。私は君を気持ちよくさせたいとか自分が快感を得たいとか…そんな余計なことは考えてないし、君もしなくていい。
私はね、ただ君と共有したいだけ。」
「共有?」
「そう。共有。例えば私と君しか触れたことのない身体の部位を作るとか…聞いた事のない声を出し合うとか…内臓の色とか…体液とか。」
世界中で二人しか知らないことを作るんだ。どうかな?と言いながらアルヴァは隣に座る私の手を取り間に指を差し込む。肉親でさえ知らない事を共有しちゃうんだ。アルヴァの指が私の指の間をかり、と引っ掻く。
「私も君も、人より知りたがりだから…まぁ、私の事は気にしなくていいけど…君はさ、
きみは、どう思ってる?」
私の中心に、異常な熱が溜まっていくのを感じた。
ただ寝転がって疲れを取るためだけの簡素な木製ベッドに、白に包まれたアルヴァの顔が視界を支配する。私の下に覆い隠された彼の身体は細くて、いや、まるで何かの犠牲に身体を削ってきたようで、もう、これ以上の侵入を受け止めきれないような。所々から骨がその存在を主張し、内臓は浅い呼吸の度その硬い腹を上下させる。骨格標本に風船を一枚覆わせたようなその身体を、今、この私に明け渡そうとしているのだ。彼は!
「見せるのは初めてだったっけ…その、君が幻想を抱いていたなら申し訳ないんだけど、生憎これが現実。嘘はつきたくなかったんだ。ごめんね。」
覚悟を決めたようにズボンを脱いで、文字通り生まれたままの姿になる。触ったっていいよ。君になら。と冗談混じりで彼は呟く。私はゆっくりと言われるがままに首元に触れ、ぼこりと浮き出る鎖骨を指で挟む。鉄の硬さに似ていた。
「もっと下。」
アルヴァが私の目を覗き込み、私の腕を掴んで下ろしていく。
肋骨の凸凹をなぞり、横隔膜で指がぐにゅりと沈む。内臓を直に触ってしまったような背徳感に、顔の中心の熱はさらに熱くなる。熟しすぎたトマトに、爪を食い込ませたような熱。アルヴァの腹部に手が添えられる。これ以上沈まない硬い腹が、ぎゅうぎゅうに詰められた彼の中身を彷彿とさせる。これ以上なにか詰めようものなら、彼は破裂して崩れてしまうんじゃないか?こんなところに、本当に私の居場所はあるのだろうか?
「ヘルマン、もっと下…」
アルヴァの細い腕が私から外され、先程まで彼の下にあった枕元の布に移される。君はどうしたいの?首も腹も、私はとっくに肉親に触れられているよ。
爪の食い込んだトマトが圧力に負け音もなく中身をどくどくと流す。その液体は知らぬ間に私の顔を伝い、アルヴァの顔に雫を落とした。鼻の奥がじく、と熱くなっていく。とめどなく溢れる鮮血が、アルヴァの鼻を、頬を、耳を伝っていく。それは私の中身の色で、彼の中身の色だった。
「あ、ええと…ごめん。急かしてしまったかな…緊張するよね、こういうのって。今夜はやめよう。うん…気にしなくていいよ。また次にしようか。」
むくりとアルヴァが起き上がり、ハンカチをちぎって私の鼻を塞ぐ。アルヴァの顔は赤かった。
窓から見た月の大きさは、やっぱり変わっていなかった。