朝しかいらない

「私達はもうだめなんだ」
所々に大きく皴が刻まれた紙と一人の男が床に這い蹲っている。お世辞にも清潔とは言えないその床に頬を付け、頭を抱え込みながら男はそう呟く。
「帰ってきたのか。どうだ?ああ、言わなくてもいい。断られたのだろう。私達の研究は机上の空論だと。紙の中から出てくることは永遠にないと。そう言われたのだろう?うん、何も言わなくていい。君は口を開けてから言葉を発するまでが遅すぎる。今、君と会話している相手は誰だ?舐めるな。君がどんなに複雑な構想を言ったとて、私は理解ができる。言葉を正規化しているつもりなのか?君はいつまで、教師のつもりで…」
「ヘルマン」
「私は君を理解できる。アルヴァ、そして君も私を理解できる。そうだろう?けれどそれでは、それだけでは駄目だ。私達はあの役人達に、銀行員に、醜く肥えたあの資本家どもにも、理解されなければいけないんだよ。アルヴァ。」
ヘルマンは指先に触れた計算用紙を握り潰しながら床に臥せている。朝にあれだけ整えた髪も服もすっかり乱れ、眉間の皴と隈を必死に隠そうと前髪が額に落ちていく。学生時代、科学への情熱とロマンに溢れ、光と才能に溢れんばかりだったあの男が、今。
「アルヴァ」
「君も、私から離れていくのか」
 縋っている。私に。研究室のドアから動かないままの私の脚に、彼の指が伸びる。私の脚を指先で掴む。こちらに来てくれと、弱い力で引っ張られる。彼が上を向く。私を、見ている。私が着ているそれよりも何倍も上等な服を床で汚して。私よりもよほど価値ある血を流すその頬を汚して。待っているのだ。私の肯定を。君が正しい、悪いのは金と娯楽で脳味噌をでろでろに溶かしてしまう彼らだと、私の口から言われるのを待っている。子供のようだと、思った。母親からの無償の愛と称賛を求め、父親からの理解と命令を待っている幼い子供。
「…私達はなにも間違っていない。私のこの行動すべてに価値と意味が確かにある。そうだ、分かるものか。人生を捧げる覚悟を持たない彼等に、完成するならば死んでもいいと思うほどに何かを創り上げた事も無い彼等に、否定と批判を酒の肴にして笑える彼等に、私を理解する事なんて死んでも不可能だ。」
彼の手で作られた足枷は締め付けを強くしていく。脚が千切れそうだ。走行不能になっても君は傍に置いてくれるだろうか?彼等と同じように脳味噌をジェラートにしなければ、君が死ぬまで夢を見せ続けられるだろうか。そんなことを考えながら腰を下ろす。ヘルマンの顔に両手を添えてみる。頬と顎を撫でてやれば鑢がけた木と同じ感触が掌を伝う。彼は別の銀行に出資を願いに行った後、早々に断られてから何も飲まずにいたのだろう。唇の皮は乾燥しきって、所々がひび割れている。親指でなぞってみる。指先に引っかかった皮を引っ張る。血が滲んでくる。その間ヘルマンは私から目を逸らさずにいたが、一瞬の鈍痛に驚いたのか目を逸らし、「痛い」と小さく呟いて目を伏せた。足枷が緩み、外れる。彼は頭を私と同じ位置まで引き上げ、力無く目を開く。
 これが末路か。と思った。何不自由なく生まれ落ち、生きて、誰よりも知恵を蓄え、永遠を夢見て、あの大学で誰よりも期待され輝いていた男が、今。アルヴァという一人の農夫くずれの科学者に首を垂れ、縋り、溶けた脳の人間達には理解できないという至極当然の現実に嘆いている。彼は今、知識よりもこの現実の打開案よりも、ただ親友からの肯定という愛情を欲しているのだ。
 唇の傷を気にしないようにと努めながら、私の顔色を静かに分析している彼の顔を見つめ返す。思えば、ヘルマンはいつも手元の紙を見て、私と目が合うことは少なかった。ガラス細工のような彼の瞳孔に私が反射している。酷い顔だ。私はいつものように笑った。ヘルマンの発想を肯定するときの、あの笑顔と共に言う。
「君には失望したよ」
途端、彼の表情が固まる。表情筋が整列した彼の顔はこんなにも冷たいのか。暫くの膠着の後、ヘルマンは何かを言いたげに口を開けたが、私の言葉は彼のものよりも速かった。
「ヘルマン、私は悲しいんだ。私達はもうだめなんだと言ったな。ヘルマン、いつ私が私達をだめだと言った?君は私よりも、他の凡愚の言葉を信じるのか?彼等は君の事をどれだけ知っているというんだ?何も知らない、ただ見たいものだけを見たいようにしか見ない彼等の感情だけで紡がれた言葉達を、君は信用し尊重すると。そう言いたいのか?」
 ヘルマンの口元が緩み、自分の顔を覆う私の手に自らの手を被せる。私が君を否定しているのではなく、むしろその逆だとようやく気が付いたらしい。
「私は君の事を知っている。誰よりも君のそばにいるから分かる。君がどんなに悩んで、考えて、未確認の敵といつも戦っている事を。ヘルマン、君は何も見なくていい。君のその目には白と黒と銀色と、動かない有機物だけ見ていればいい。君は君の夢だけを追いかけて、私という道具を使って創り上げていけばいい。ヘルマン、君は何も聞かなくていい。質量の無い言葉で君の脳に黴を生やす必要なんてないんだ。」
 完成さえしてしまえばいい。完成品を見せつけてしまえば誰も私達を咎めない。けれどもその前に腐ってしまっては意味がない。と、彼に言う。駄々をこねる幼子を優しく宥める母親のように。あるいは洗脳のように。
 ヘルマンの瞳が私を捉える。それと同時に、彼は笑顔…のつもりなのだろう。口角こそ上がっているものの、眉根は下がり、瞼は怯えている。頬を伝って私の指に絡まる涙に、彼自身は気が付いていないようだ。
「…ああ、そうだ。アルヴァ。私は何を言っていたのだろう。私を理解できないのならば私の世界には必要ない。そんなものが無くとも私は発明ができる。研究ができる。思考も、計算も、この腕を動かすことだって!…アルヴァ、私には君がいる。君が…」
 彼の皮膚は陶器ではない。血も涙も流れてしまう。演繹的に考えれば彼は死ぬ。それがいつ、なんてのは私が決める事ではないが、せめてその時までは夢を見せ続けてやりたいと思った。そして願わくば、最期に映るものは私でありますように。

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