太陽と氷
子供の声。ガスメーターの音。蚊取線香。壊れかけの扇風機。蝉の声。アイス売りのベル。部活終わりと昼下がり。足の踏み場もないワンルーム。トヨタ・スポーツ800。高度経済成長期。汗っかきと麦茶のコップ。つがいの氷。ぼくの分身。
「子供の時、蝉ってなんで鳴くんだろうと思ってた。自分を捕まえようと行進する僕達に抵抗しているのかなって。違った。ただ性行為の相手を探しているだけだったんだ。」
「だけ」だなんて君も言うようになったな、とルカはいつの間にか解けていた髪紐を手に取った。汗で息子にまだ貞操が存在していると思い込む肉親のように張りついた黒髪は鬱陶しそうにぼくを見ている。すまない、みっともないね。と呟いてルカはぼくの背中から手を離し麦茶のコップに口をつけた。コップから垂れた水滴が手のひらから腕をつたって太腿に落ちる。そいつがまるで「貴方、今回も彼とする時にがっついたでしょう?若いって本当にみっともないわ。いいこと?まずは私のように彼の手のひらから腕を愛撫して…」とぼくに説教してくる。分かってるんだそんなこと。この太陽の熱はどうも人間を「みっともなく」させて構わないんだよ。
ルカのコップの氷は溶けてひとつになっていた。なんだか羨ましかった。
「この扇風機はね、ゴミ捨て場にあったのを私が修理したのさ。どうだい?多少うるさいが十二分に使えるだろう」
布団の端で肩こりでも持っているみたいに、ぎこちなく首を振る扇風機。へぇ、すごいや。今年の夏はどうも暑いから、助かるね。とぼくが褒めると、ルカは自信満々に自由研究を終わらせた小学生みたいな顔になった。
それからぼくらは(今までもそうだったように)体力が尽きるまでお互いを貪りあった。
「扇風機の音が大きいから、もう少し声を出しても聞こえないよ。」
「そんなつもりで修理したんじゃないんだがな。」
ルカがオリンピック選手の試合直後にインタビューを受けた声みたいになった時には、すでに子供もトヨタ・スポーツ800も消えていた。部屋は互いの身体のしんから出た体液の匂いと灰になった蚊取線香の残り香だけが静かに支配していて、時計はあの頃怖くて布団から出られやしなかった、丑三つ時を指していた。 ルカは夜食用にもらったんだ。と無造作に置かれていた袋のチキンラーメンを、冷水が入ったままの鍋につっこんだ。
「こんな硬い麺が食べられるようになるなんて、大発明だね。」
「私だっていつか大発明をして君を驚かせてやるさ。」
試験管の中の薬品を溶かすような手付きで麺をほぐすルカの後頭部を、なんとなく、なんとなく指でたどった。
「適当に結んだだけだから形が良くないだろう?不器用な蒲公英の葉にそっくりだと思うんだがどうだろうか。」
いや、ぼくはルカの縛りそこなった、かわいそうに下に垂れるばかりの数本の髪の毛が好きなんだ。なんだか僕達を…少なくとも、ぼくを見てるみたいで。
ほぐれた麺から茶色のスープが染み出して、つんとぼくの鼻をつつく。
こんな暑い日に脳みそが見る白昼夢――これはぼくの独り言なんだけれども――ぼくは本当は人間のフリをした――人間だと勘違いしている無機物なんじゃないかと思う。ぼくは本当は氷で、ただ万年氷だから、ほんの少しずつしか溶けていかないだけで。汗だと思っていたものが、「溶けたぼく自身」だったって、なんにも疑問に思わない自信があるんだ。ぼく以外にそんな無機物がいたってルカがもしそんな物質だったとしたら――
「太陽なんだろうな。」
冷水から茹でられ中途半端な硬さのラーメンを頬張っていたルカが、ぼくに素っ頓狂な顔をして見せた。(例えるなら読書感想文の為に読み進めた本が、偶然にも田山花袋の『蒲団』だった時の中学生みたいな。)ぼくとルカの1964年は、白黒テレビもない、けれどもっと高度な機械が紙の中に敷き詰められたワンルームでの、ただの蝉の真似事。