いらない習慣
静かだ。彼は汽車のようにその口と手足が止まる時なんてなかったのに。
静かだ。この棺桶の中にその口も手足もまるで見当たらなくて。
薄暗い夕方の墓地に、神父と、痩せた長身の男だけが立っていた。
男は神父の祈りを、ただ俯いて聞くだけであったが、時々誰かを探すかのように帽子の影に隠れた目を墓碑銘に移している。
「カイザー教授」
男は少しだけ頭を上げ、教会から歩いてきた老人に向けてそう呟いた。神父の祈りの言葉はとうに終わり、悲しいほどに広い墓地には男が二人、簡素な墓の名前を見つめるだけだった。
「先生だけです、彼を見送りに来てくれたのは。」
長身の男はそう静かに言うと、再び俯き目線を墓に落とす。爆発事故だったそうだな、研究中の。と、老人が尋ねると、男はしばしの沈黙ののちに口を開いた。
「初歩的な点検を怠ったのでしょう。きっと。いつも私が彼の機械の点検をしていたものですから。彼のことです、研究を進める事ばかりに目が行って、忘れてしまっていたのでしょうね。自分が一人だということに。出会った時から何一つ変わらない、本当に、彼は…」
男が帽子を取り老人のほうを向く。長く、しかしそれゆえか少しばかり痛んでいる白い髪が生ぬるい日没の風に絡まる。そのまま何かを言いたげに口を開きかけるが、男はまた目を下に向け、少々雑に刻まれた墓碑銘を見つめる。その目は、生前の彼の白熱する討論を、まるで、こちらを向いてほしそうにわざと大きな声で騒ぐ子供の心境を理解している母親のようにただ見つめる、あの視線と寸分違わぬものであった。
「困った男でした。私がいないと、自分の研究もろくに進められないような、そんな。」
「死ぬまで気が付かなかったのでしょう。私が君のためにどれだけ早く起きていたか。君の御機嫌と健康のために手の込んだ食事を作っていたこと。脱ぎ散らかした君の服を集めて畳んでいたこと。夜の間に床に落とした計算用紙を全部整頓していたこと。君が死なないように神経をすり減らしながら点検を、組み立てを、していたこと。君が出かけている間、研究室の掃除をしていたこと。君の寝顔を見ながら、毎晩毎晩、学術誌を読んでいたこと。君から、見放されたくなくて。君に、一人で死んでほしくなくて。気が付かなかったんだろう。私にとって君が大切だったという事を。君の夢よりも大切だったということを。」
だから死んだ。夢の為に必要ないと判断したものは、視界にすら入れようとしなかっただろ。
男は膝を墓の上に落とし、頭を墓碑の上に垂らす。一つに結ばれた髪は男の顔を覆い隠し、その場しのぎの懺悔室を築く。
「先生、私はもう、そのどの習慣も行う必要がなくなったんです。早く起きても彼はいない。どれだけ凝った料理を作っても彼の機嫌はとれない。計算用紙も服も散らからない。もう彼は死んだから。先生、私はもう彼の為に苦しむ必要も、彼に生活を捧げる必要も、無いんです。彼の、ヘルマンの、あんな、馬鹿げた、夢物語などに!もう…」
男はそう言いながら小さく笑っている。老人は何も言わず、その小さく縮こまった男の背中をただ眺めていた。
同じだった。入学して初めての授業の時、一番後ろの席で小さく縮こまっていたあの背中と。相互作用がなくなれば、物質は以前の形に戻る。それは人も同じなのだ。アルヴァ、君はまるでヘルマンと出会う前に戻ってしまったのかもしれない。カイザーはこの二人の生徒の運命を顧みながら、墓場を後にした。